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クリーム色の天井と壁に囲まれた昼間のダイニングは、一間続きになっているリビングの大きな窓から差し込んでくる自然光によって、やわらかく照らしだされている。やや黄みを帯びたグラデーションが美しいテーブルクロスが掛けられた滑らかな木製のテーブルの上にはパンと数種類のきのこが和えられたパスタ、野菜をたっぷり煮込んだスープ、それに豆腐とひじきで作られたハンバーグが並べられていた。
その、あまりにも強大すぎる能力ゆえに、肉類や魚等を一切食することのできない上司のために用意されたそれはとても温かく。いくら一人暮らしが長かったとはいえ、いやだからこそ、それほど凝ったものは作れなかったはずの同僚の少女の頑張りを表していて、リンは知らず穏やかな笑みを浮かべた。
二十歳を越え、今では同僚であると同時に上司の妻となった女性に対して、『少女』という表現はもう相応しくないのかも知れないが、リンにしてみれば彼女はいつまでも、年の離れた妹のような存在だった。
「……リンさん?」
そのため、その妹の成長を間近に見たようで、なんとも言えない感慨のようなものを覚えながらスープを一口含んだリンは、少女の自称『姉』、他称『母親』にみっちり教わったのか、塩・胡椒で味を整えられたそれが、とろり、と咽喉を伝っていく感触に感嘆の息を吐く。濃すぎず薄すぎず、絶妙な味付けのスープはとても美味しく、だがそう告げようとした瞬間背筋を、ぞくり、としたものが走って、思わず口ごもってしまった。
「どうしたの、リンさん? あ、もしかして味、ヘンだった?」
「あ、いいえ。……とても、美味しいですよ」
「そう……ですか?」
その様子に、きょとり、と目を瞬くと、隣に座っていた麻衣が自分の分のスープをスプーンにすくう。慌てて味を確かめようとする彼女に否定し、今度こそ賛辞を告げると、安堵したように、良かった、といって笑った。その前ではリンにとって上司であり、被保護者でもあるナルが優雅な手つきでパスタをフォークに絡めている。
放っておけば三日三晩くらいは食事を取らずに研究に没頭する彼のために料理をし、こうして向かい合って食事をすること自体はさして特筆すべきものではないが、その機会はナルが麻衣と婚姻を結び、共にこの部屋に住むようになってから、目に見えて激減した。むしろ籍を入れて後、嫌がらせのように連日連夜送られてきた仕事や論文依頼のために彼は昼夜を問わず働き詰めであったし、リンもまた必要な資料を集めるために資料室や自宅に篭っていたため、どちらもろくに食事など取っていない。
考えてみれば、こうしてナルと向き合って人並みの『食事』を取るのは、彼らが結婚して以降、初めてのことではないだろうか。
そう思いつくと、いくら規格外とはいえ新婚家庭に、それもどちらもよく知っている相手の家にお邪魔をして、こうして一緒に昼食を取っていることが妙に気恥ずかしいというか、自分が場違いである気がして、リンは小さく肩を竦めた。
最初、声をかけられたときは遠慮させてもらおうと思ったのだが、どうせリンさんもナルと同じで、ろくに食べてなかったんでしょう。と言われればその通りで。そしてそれ以上に、本当は寂しがり屋で甘えたがりで、でもそれを素直に口にすることのできない甘え下手な少女が、二人分作るのも三人分作るのも同じだから。「だから、リンさんも一緒にご飯食べよう」と、向けられた不安と期待に満ち満ちた瞳を無碍に断ることなど、どうしてもリンには出来なかったのだ。
だが、しかし。
麻衣に連れられてリンがこの部屋に入ってきたとき、ナルはあからさまに、『何故』という表情をしていた。その場では、満面の笑みを浮かべて嬉しそうに『みんなでご飯』を強請(ねだ)る麻衣に負けたのか了承してはいたが、それ以降、ナルの機嫌が微妙に悪いような気がして、落ち着かない。
こんなふうに素直に感情を表すようになったことは喜ばしく思うが、いざ自分がそれを向けられる対象になると居辛いというか、居た堪れないを通り越して、ただただ恐ろしい。
……今度から、いくら誘われても、どうにかして上手く断るようにしましょう。
そう決意をするとリンは、せっかく手間隙(てまひま)をかけて少女が作った料理を申し訳なく思いながらも、なるべく早く食べ終えてしまおうと、こっそり食事をする速度を速めた。
「あ、そうだ。ナル」
と、そんなナルのかすかに不穏な空気に気付いていないのか……というより、今さら多少彼の機嫌が悪くても気にならないくらいに慣れてしまっているのか、麻衣がパンを千切りながらナルの名を呼んだ。
「……なんだ?」
「あのね、リンさんにも聞きたいんだけど。最近なにか、本部以外の仕事とか、請けました?」
口に含んでいたパスタを咀嚼して、きっちりと飲み込んでから返事をしたナルに麻衣が、ことり、と首を傾げる。
一瞬、本部からの怒涛のような仕事の押し付けのことかと思ったが、それならわざわざ訊ねてはこないだろうし、本部以外の、と補足はつけないだろうと思う。だが、ある日突然それが止んで以来、特に論文や学会への出席依頼等は受けていないはずだ。少なくてもリンの耳には入ってきていない。
「いえ」
「なぜだ?」
だから、何故そのようなことを訊かれるのかと内心で首を捻りながらリンは訊ね返し、ナルもまた同じ疑問を抱いたのか怪訝そうに眉を顰めた。
「や、ちょっと今日、買い物前に銀行に寄ってきたんだけど」
二人がそろって心当たりがないと言っている態度に麻衣は、ん~、と考え込むように人指し指を顎に当てる。
「なんか、英語の名前の銀行から送金があったんだよね。それも、ものすんごい大金」
「送金、ですか?」
ものすんごい、を強調して言った麻衣に、リンはわずかに驚きをあらわにした。
「うん。通帳見たら前にも何度か振込があったところみたいだから、てっきりそうなのかと思ったんだけど……」
英語の名前で、かつナルも心当たりがないのならば、おそらくSPRからではなくナル個人のスポンサーからの出資だろうと考えられる。だがしかし、基本的に個人のスポンサーからの資金はすべて、プライベートバンクへと入金されるようになっているはずだ。いくら日本で活動する間の暫定的なものとはいえ、麻衣がナルの個人的な預金通帳を預かっているらしいことにも驚いたが、わざわざ日本の銀行に開設してある講座に送金されているというのは、何故なのだろう。
だいいち、そのスポンサーにしても、麻衣と結婚したことによって何人かは降りたはずだ。それなのに。
そこまで考えて、そういえば、とリンはナルに視線を向けた。
そういえば少し前、彼らのうちの幾人かが彼女に、嫌がらせのようなものをしていたらしいと言っていなかっただろうか。
「……ナル?」
言外に、何かやりましたか。と訊ねたリンにナルが、くつり、とシニカルな笑みを浮かべた。自分に向けられているわけではないのにまるで、咽喉元に刃を突きつけられたかのような、ひやり、としたものが全身を走り抜ける。ひどく酷薄なその表情に、どうやらすでに相手を突き止めて報復した後らしいと悟って、だがリンは、仕方ないか、と小さく溜息を吐いた。
普段ならばスポンサーなのだから、と多少は取り成そうとするところだが、よりにもよってナルの逆鱗に自ら触れた彼らを弁護する気にはとうていなれない。むしろ、麻衣を傷つけた彼らに対しては怒りがあるのみだ。
小言のひとつでもくると思っていたのだろう、何も言わずにパンに手を伸ばしたリンに、ナルがわずかに目を瞠る。だがすぐに、何事もなかったように自らもまた食事を再開した。
「麻衣」
「あ、なんかあった?」
「あぁ。大丈夫だ、心当たりならある」
「そうなの? ならいいや。あんな金額、紙の上でも見たことないからさ。なにコレ~、って不安だったんだよね~」
呼びかけられて、ことり、と先ほどとは逆の方向に首を傾げた麻衣は、ナルが頷いて請け負ったのに安心したようだ。良かった~、と表情をほころばせて、いそいそ、とスープ皿に手元に引き寄せる。
具体的にいくらぐらいの金額が振り込まれていたのかは判らない。だが、世間一般的には自分たちの金銭感覚がむしろ少数派であることくらい知っている。そのため、おそらくはナルからすればそれ程でもない額であっても、長く勤労学生をしている彼女からすれば破格の金額が印字されていたのだろう。不安になる気持ちも、解らなくはない。
「早く慣れろ」
「むちゃ言わないでよ、こっちは一小市民なんだから。あんまり0が多いと怖いんだよ~」
「なら、やる」
「は? 何を?」
「その、送金されてきた分を」
「……………は?」
だが、やはりナルにしては理解のできない感情らしく、「通帳持ち歩くのだけでも、心臓バクバクものなんだからね」と、そう両手を胸の前で握り締めて訴える麻衣に考え込むように目を伏せるとあっさりと、彼女曰く『ものすんごい大金』を、好きにつかえ、と口にした。
「完全な臨時収入だからな。なにか欲しいものがあるなら――…」
「はぁぁぁっ!?」
「麻衣、うるさい。それから、食事中に立ち上がるな」
「いやいやいや! それどころじゃないからっ! いい、いらないっていうかもらえないあんな大金っ!!」
それに数秒の間、呆然としていた麻衣が、がたんっ、と大きな音を立てて椅子から立ち上がる。宥めるナルの声を遮って、ぶんぶん、と前に突き出した両手を大きく左右に振った。
「何故? あれは麻衣の金でもあるんだぞ」
「いやでも!」
「うるさい。持ち主の僕が良いと言っているんだから、問題ないだろう。なにかないのか?」
リンにすればそれはそうだろうと思うが、ナルは固くなに拒否をする彼女に片目を眇めると、強い口調でその反論を切り捨てる。わずかに、ムッ、としたような表情の、その背後に何か、黒いオーラのようなものが見えた。
だがこれは、麻衣の拒否に対して機嫌を悪くしているというよりも、これ以上問いかけられる前に遮ってしまおうとしているように見える。
本人に訊ねれば、なにを根拠に、と冷ややかな笑みと共に切って捨てられそうだが、先ほど問いかけたときのナルの表情と、『完全な』という発言。そして何より、本人がいまいち自覚しているのかどうか判りかねるが、おそらく出逢った当初からナルにとって『例外』で『特別』だった少女が、いまでは彼の最も奥深い場所に存在を許されていることを考えれば、おそらく当たっているのではないだろうか。
ナルが彼らにいったいどんな報復をしたのかまでは判らないが、そのことを思い知った者たちがナルと、何よりも麻衣に対して詫びというか、どうにかして取り入ろうとして入金したものが、まとめてその口座に振り替えられたのだろう。つまりは、賄賂のようなものだ。
「……麻衣さん」
「っひゃい?」
「……………ひゃい?」
そう推測を立てると、リンは眉間にしわを寄せているナルをどうにか説得しようとしている麻衣に声をかけた。が、何故か麻衣は尻尾を踏まれた猫のように大きく飛び跳ねると、勢いよくリンを振り返ってくる。その顔は真っ赤になっていて、リンは何かしてしまっただろうか、と首を傾げた。
「……どうか、しましたか?」
「い、いえあの。り、リンさん……」
「はい?」
「いま、あたしの名前……」
「麻衣さんとお呼びしましたが……?」
もうすでに彼女は、『谷山さん』ではなくなってしまったのだから、今までどおりに呼ぶわけにはいかないだろう。上司の妻であるのだから、本来ならば『ディヴィス夫人』と呼ぶのが正しいのだろうが、少女はそういう他人行儀名呼び方をすればきっと悲しむだろうし、そもそもナルの正体のヒントをおおっぴらに口にすることはできない。そのため、少し考えてから下の名前で呼んだのだが。
「嫌でしたか?」
「いえ! まさか!」
もしかすると不愉快だっただろうかと訊ねたリンに、麻衣は大きく頭を左右に振る。
「そ、そうだよね……。あたしもう、『谷山』じゃ、ないんだし……」
頬をほんのりと桜色に染め上げて、ぽそぽそ、と小声で呟くと、嬉しそうに笑った。
「ちょっとびっくりしたけど、でも、嬉しいです」
「そうですか」
えへへ、とはにかみながらも笑顔で見上げてきた麻衣に、リンの表情も自然と緩む。かすかに口角を持ち上げて、少女が『縁起の良い』と呼んでいる笑顔になったリンに、麻衣がますます笑みを深めて。
「……………リン」
周囲に流れ出したほのぼのとした空気を凝(こご)らせるような、冷たい声が走った。
「あぁ、すみません、ナル。麻衣さん、先ほどのお話ですが」
名を呼ぶためのたった二音に込められた複数の意味を正確に受け止めて、リンは即座に顔を元の、限りなく無表情に近いそれに戻す。話が脱線したことに対する苛立たしさよりも、少女の素直な好意を向けられていたことに対するそれのほうが強く感じるのは、きっと気のせいではないはずだ。
「あ、そうだった。リンさんからも何とか言ってやってよ。臨時収入って言ったって、後に0が何個ついていたと――……」
「せっかくですから、頂いておけばよろしいのでは」
不穏な気配に気付いていないのは、それが自分に向けられているものではないからだろうか。
リンはひしひしと感じる無言の脅迫をどうにか、表面上は何事もないかのように受け流しながら彼女に勧めた。
「はぇ……っ!?」
「どうやら、ナルよりも貴女のほうがもらう権利のあるお金のようですから」
おそらく多少の、それこそ生活費を預けられているのとは桁が違いすぎる金額なのだろうが、この三ヶ月間のナルの仕事量や麻衣への嫌がらせを考えれば、慰謝料としては十分、いやむしろ、足りないくらいではないかとリンは思う。元スポンサーたちの思惑がどうであれ、麻衣に直接送ってきているのならばともかくナル名義の口座に入っている以上、彼らがたとえそれを元に麻衣へと見返りを求めようとしても、常と同じく研究資金にと提供されたものだとしてナルが阻むだろう。
「りり、リンさんまで……っ!」
「リンもこう言っていることだし、なにか欲しいものはないのか? すぐには思いつかないと言うのならば、とりあえず預金しておいて後から、欲しいものが出てきたときに買うというのでもかまわないが」
てっきり、一緒にナルを諌めてくれるだろうと思っていたらしく、リンが彼の意見に賛成すると麻衣は、あわあわ、とうろたえだした。逆に、リンの後押しを受けたナルは手にしていたフォークを皿の上に戻すと、ここぞとばかりに畳み掛ける。
「え、えとえと……。じ、じゃあ……」
完全に食事を終えたらしく両手の指をテーブルの上で組んで、そのまま無言で「どうする?」と訊ねるナルと、それから小さく頷いたリンとを困惑したように数度見やって。
「く、クイックルワイパーが欲しい!」
「…………………………は?」
「クイックルワイパー……です、か?」
ぽむ、と両手を打ち鳴らして、これだ、と言わんばかりの笑顔で彼女が答えた実用的過ぎる物品名に、ナルは怪訝な表情になった。
「なんだ、それは?」
日頃、よほどのことがない限り表情を変えないナルにしては珍しく、あからさまに眉を顰め、リンもまた二、三度瞬きをして麻衣を見つめる。
だがナルでなくても、『今まで見たことのない大金』の使い道に、一揃えしたとしても万もいかないような日用品を挙げられれば虚を衝かれるだろう。少女の身に倹約が染み付いているのはよく知っているし、その口から宝石やブランドのバッグや服などが出てくるとは確かに思っていなかったけれど、それにしても掃除道具、それも消耗品が真っ先に挙がるとは予想だにしていなかった。
「あ、ナル知らない? えとね、クイックルワイパーっていうのはこう、長い柄が付いてて――…」
「僕が訊きたいのはそういうことじゃない」
それから、とりあえず座れ。
その様子に、ナルがその商品を知らないのだと思ったらしく、麻衣がスプーンをそれに見立てて、身振り手振りを交えながら説明しようとする。それを呆れたように溜息を吐いて、『座れ』と手を上下に振ることで示したナルに、麻衣は素直に椅子へ腰掛けながらも、だって、と頬を膨らませた。
「だってこの家、掃除機しかないんだもん。毎日かけてたら、ナル、うるさいでしょ」
「……は?」
「その点、クイックルワイパーだったら音はしないしほこりも舞い上がらないし、立ったままでできるから雑巾で拭くみたいに部屋の中を走る必要もないし。それにシート換えたらワックスにも使えるんだよ。詰め替え用も売ってるから経済的でしょ、一石三鳥! って、あれ? ナル?」
握っていたスプーンをスープ皿に戻して、膨れ顔のままで麻衣が指折り数えるクイックルワイパーの利点に、ナルの表情は徐々に戸惑いのそれに変わっていく。
麻衣の『欲しいもの』の説明を受けているはずなのに、挙げられるそれはどう考えてもナルの利点だ。
「ナル、どしたの?」
「僕は、お前の欲しいものを訊いているんだが」
「え、だから今言ってるじゃん」
「そうじゃなくて……」
「ダスキンモップもいいなぁ~、って思ったんだけど、あれって確か2週間ごとだったかなぁ、家に交換に来てくれるんだよね、モップ。ほんとはそれ、良いサービスなんだろうけど、でもナル、家に他人が入るの嫌でしょ。それに、調査のときとか何日も家空けるだろうし。だったらやっぱり、クイックルワイパーかなぁって」
無自覚なのか、こめかみを指で押さえて俯くナルに麻衣が、きょとり、と目を瞬いて補足する。だが、それもやはり麻衣ではなく、ナルの都合を基にした『理由』だ。
「……………解った。それはそれで、買ってやる」
自分の中でなにと、どう折り合いをつけたのか。数秒の沈黙の後にナルが、長い長い溜息を吐いた。
「? なんでため息?」
「気にするな」
「いや、ひとの顔見ながらため息つかれたら、普通は気にすると思うけど……あ、でも」
はぁぁ、と声が聞こえてきそうなほどのそれに、麻衣が眉根を寄せる。が、苦虫を噛み潰したような表情で言うナルに文句を言いつつも、ナルだもんねぇ、と呟くと、何かに気付いたように口を、『あ』の形に開いた。
「麻衣?」
「あ、あのね。もうひとつ、オネガイしてもいい?」
「なんだ?」
ぱっ、と一瞬で頬に朱を走らせた麻衣に、ナルが視線だけで「どうした?」と訊ねると、麻衣は先ほどとは打って変わって言いづらそうに続ける。
「キーホルダーが欲しい、な。……2個」
が、おずおずと口にしたそれは掃除用品に比べれば確かに、まだ生活必需品ではないから詫びの品になりそうではあったけれど、それでもやはりつつましいというか、ささやか過ぎるものだった。
「…………………………麻衣」
「あの……麻衣さん?」
ナルの口唇から、この数分のやり取りの中で一番深い溜息が落ちたのに、リンは思わず口をはさんでいた。
遠慮深いというのは本来美徳なのだろうと思うが、この少女に関してはむしろ、水臭いという感情が前面に立つ。ましてやナルは他人ではなく夫なのだから、もっと甘えても良いのではないだろうか。
「あ、あのね。今、かぎになんにもついてないでしょ。落としちゃったりしたら、困るし。それに――…」
どんな形であれ夫婦のやり取りに横合いから手出しするのはどうかと思っていたが、実はこっそり期待していたらしく、ものすごく判りにくいもののどうやら気落ちしている様子のナルがさすがに気の毒に思えて、せめてもう少し、それこそ婚約指輪のひとつでも強請(ねだ)ったらどうですか、とリンがとりなそうとする前に、麻衣が頬を染めたまま、おずおず、と口を開いた。
「お、おそろいの、付けたいなって――…」
だ、ダメ?
情けなく眉尻を下げて、まるで主人の機嫌を窺う小犬のように、じっとその鳶色の瞳に見上げられて、ナルが静かに固まったのが判った。珍しく、それはもう天変地異の前触れではないかと思えるほど珍しいものを見せられて、思わずリンは目を瞠る。
「っ……リン」
「はい。なんでしょう、ナル」
それに気付いたのか、ナルが鋭い視線を向けてきたものの、少しも恐ろしいと思わない。
いや、心霊現象が起こっているわけでもないのに、周囲の気温が急激に下がっているのは感じとっていたが、それ以上に、十年近くも見てきた少年の、はじめて見る年相応の表情と反応のほうが勝(まさ)って、リンはほのかな笑みを浮かべて返事をした。
「……ナル? や、やっぱりだめ……?」
「麻衣」
「……はぃ?」
が、どんどんとその表情が険しくなっていくナルに、嫌がっているのだと勘違いしたらしい麻衣が、しゅん、と目に見えて項垂れてしまう。慌てて名前を呼んで麻衣の気を引くと、そろそろと向けられた瞳が不安げに揺れていて。
「……………好きにしろ」
ナルはわずかに口ごもったものの、自分の不機嫌の理由を口にするのは嫌なようで、はぁ、と溜息と共に頷いた。
「い、いいの!?」
とたんに、麻衣の表情が、ぱっ、と明るくなる。
こういうのを日本語では、泣いたカラスがもう笑った、と言うのでしたっけ。と、リンがその表情の変化に目を瞬いているうちにも、ナルと麻衣の会話は続いていく。
「欲しいものを買えといったのは僕だ。キーホルダーでもキーチェーンでも、好きなものを買えばいい」
「うん! じゃあさっそく、明日探しに行くね。買ったら、ナルもつけてね」
「あぁ。わかった」
そんな、微笑ましい新米夫婦のやり取りを、リンは淡い笑みを浮かべながら見つめていた。
その二日後、英国にいる上司から送られてきた飛行機のチケットと、その理由説明のためにかかってきた電話に文句ひとつ言わずに了承すると、SPR本部所属のほうの『犯人』たちを突き止めるためにイギリスへと向かい。
そして、そのさらに数日後。日本に戻ってきて、オフィスでたまたま、偶然見かけた年下の上司であり二十歳を過ぎた今でもどこか保護対象として扱ってしまう青年が手にしていた、一目で上質と分るものの彼が持つには些か違和感を覚える色合いのキーケースに、おや、と内心で首を傾げ。だが、ぱたぱた、とよく動き回るためか、ややおっちょこちょいなところがある少女がそれと同じデザインの、だが配色としては彼女ではなくむしろ彼が持つべきだろう色の組み合わせのそれを落としたことに、互いが互いの色をまとっているのだと気付いて柔らかな笑みを浮かべたリンは、それを目聡く察知した有能すぎる同僚に鋭く追及されることになったのだった。
注釈:リンさん視点は、この1編のみです。