
冬インテ新刊です。夏発行『Once again』の博士視点。
悪阻も収まり、徐々に膨らみ始めている腹部を撫でる妻は、確かに自分のよく知る彼女なのに、いつの間にか『母』の表情をしていて。これが幸せというものなのだろう、と感じると同時に、彼女が自分以外のもののために変わっていく姿に何とも言えない複雑な感情を抱いていたころ。
ある朝、妻が自分は15歳だ中学生だ~、と泣き出した。どうやら彼女は、自分と出会ってからの10年間の記憶がないらしい。
いつ帰ってくるのかと不安になりながらも妻を待ちつつ、十年前の彼女も麻衣には変わりないから、と気遣う?博士の話
人間の本質なんて、そうそう変わるものではない。
ならばあの“麻衣”も、十分混乱したなら勝手に、自力で浮上してくるだろう。
そう考えてナルは、妻から預けられた過去の自分への手紙を渡すと、何故か顔中を真っ赤に染め上げた彼女をリビングにおいて、書斎へと一人入ったのだが。
(……いや)
おそらく、これから自分以上に混乱に陥るだろう彼女を気遣って、なんていうのは、体のいい言い訳だとナルは自覚していた。
彼女の発言は今のところ、妻が残した手紙となんら矛盾することがない。
これが別の人間――例えば、今は亡き兄であったならばずいぶんと手の込んだ、だが実行したとしてもまったく不思議ではない盛大な悪戯だろうが、妻にそんな完璧な演技なんてできるわけがないのだ。彼女が本当に本気で隠すと決めたことならば、さすがのナルでもなかなか見破ることは難しいが、そもそも、いくら安定期に入ったとはいえ母子ともに完全に安全でいられる期間などないのに、夫と知り合う前までの記憶しかないだなんて嘘を吐く必要なんてどこにもないではないか。
だからあれは、間違いなく過去の“麻衣”なのだろう。
そう理性は一先ずの納得をした――しようとしているのに、感情面は一向に納得しようとしなかった。
「……躰は、あくまでも今の麻衣だからなのか?」
もう少しはっきりと自分の妻と差異があればナルもここまで悩まないのに、こちらの言動に対する反応がいちいち被るから、どうしても対応が一瞬遅れてしまう。確かに残されていた手紙には、彼女も“麻衣”なのだから、いつものように優しくしてほしいと書いてはあったが、それでもナルの中であれは“麻衣”ではなかった。
麻衣は麻衣でも、自分の麻衣ではない。
そう認識していたはずなのに、食事の最後、淹れてやった紅茶を一口飲むなり、美味しい、と幸せそうに表情を綻ばせた彼女に無意識のうちに躰が動いて、気がついたら横抱きにしてロッキングチェアーへと運んでいた。
それは、悪阻が落ち着いた頃からの毎朝の習慣で。
一緒に食事を取り、紅茶を一杯飲んだら抱き上げてリビング奥に設置しているチェアーへと運び、そこで彼女が生まれてくる赤子のための衣装や涎掛けなどを縫ったり編んだりしている間にメールの確認やどうしても自分が出て行かなければならない案件があった場合には研究室に顔を出し、昼過ぎには一度様子を見に戻ってくる、というのがもう、彼にとって日常になっていたからだと、一人になってから気付く。
今も、もし彼女が何か助けを求めてきたならばすぐに気付けるように、と当たり前のようにドアを開いたままにしているあたり、習慣とは恐ろしいものだと慄くべきなのか呆れるべきなのか判らない。
だが。
「……一番判らないのは、僕自身か」
赤く染まった頬で、「ぁ、ありがとう、ございます……?」と恥ずかしそうに礼を言った彼女と、もうそろそろ慣れてもいいだろうに抱き上げるたびに戸惑いを隠せない表情で、けれど嬉しそうに微笑う妻の姿とが寸分も違いなく重なって、ナルは自嘲を浮かべた。
“麻衣”ではない相手に、彼女に感じている恋情と同じものを覚えるのは妻に対する裏切りのような気がするのに、その仕草のひとつひとつが、表情のひとつひとつが、自分も“麻衣”だと訴えてきているように思えてならない。
意識しなければ“麻衣”と“彼女”を分離させることができないなんて、自分はこんなにも愚かだっただろうか。
“麻衣”に対してだけは、どこまでも愚かな、ただの男になってしまう自分はもう、十分すぎるほどに自覚し、許してもいるが、それは過去の彼女であっても有効だというのか。
(いや……)
だが考えてみれば自分は、出会った当初から“麻衣”に対しては他者ではありえない対応をしていた。
助手を命じたのは、彼女のせいでリンが怪我を負い、調査から離脱せざるを得なかったからであるし、年頃の少女であるにも拘らずこの顔に色めきだつことも無く、対等に会話をしてきたことから邪魔にはならなさそうだと判断したからでもあるが、それでも何の知識もないただの女子高生をその場で雇うなど、決して良案とは言えない。それに、五日目の朝も、いくら前日遅くまで調べ物をしていたからといって、あんなにも近い距離に来るまで目覚めることができなかったことも問題であるし、そもそも親しいわけでもない他人が淹れた飲物を受け取るなんてありえない。“麻衣”のことを大切だと、自身にとっての唯一だと自覚してからは、出逢ったそのときから、さり気なくだがしっかりとこちらを警戒していた彼女をどこか特別視していたのだと解るが、あの時の麻衣は今の彼女と一年ほども変わらない。その間に、彼女にとっての絶対の庇護者を失うという不幸が襲い、まだ幼い少女がたった一人で生きていけるほど世界は優しくないことを知っているからこそその後は雇い入れるという形で保護したが、それでも、どちらも十五歳の麻衣という意味では一緒なのだから、出逢ったのが一人で生き始める前の彼女であったとしても同じように興味を抱いたのかもしれない。
たらればを考えても仕方がないことではあるが、いつの時代の、どんな状況にある麻衣であってもその本質は“麻衣”のままであるならば、それを大事に守りたいと思うのも、損なうことのないまま傍にいてほしいと願うのも、ナルにとっては自然なことだった。
彼女に関するすべての権利を得ると同時に、ナルに関するすべての権利も彼女に明け渡したのだから、今回のことも麻衣が引き当てる数あるびっくり箱のうちのひとつでしかない。
その中でナルにできることは、麻衣の肉体と胎の子と、それから彼女の精神を守ること。
そのためには彼女がこの状況に馴染み、開き直って肝を据えられるまでなるべくいつもどおりの生活をさせる必要がある。
要は、どれだけ小難しい理屈を並べようとも最終的には、麻衣は麻衣だ、という簡単な一言で集約されてしまうのだが、それでもそれは、これから始まる約1週間―-妻からの手紙の内容が正しければ、の話だが――の共同生活の間、ナルが彼女に対してどのように相対するかを判断するために重要な結論付けだった。
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